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1.秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)を荒み わが衣手は 露に濡れつつ  天智天皇

小倉百人一首は天智天皇の歌から始まります。藤原定家が小倉百人一首の最初に選んだのは、藤原家の始まりと縁の深い第三十八代天皇である天智天皇です。この歌はもともと天智天皇の御製ではないとする説と、いや天智天皇の御製であるとする説があり、解釈が割れています。

1.秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)を荒み わが衣手は 露に濡れつつ  天智天皇

歌の意味はおおよそ、「秋の田んぼにつくった仮小屋の屋根の苫の網目が荒いので、私の袖は露で濡れてしまっている」です。
田んぼの仮小屋で一夜を明かしたが、その仮小屋の屋根の隙間から夜露が漏れ落ちて袖が濡れてしまったという状況を歌にしたものです。
小倉百人一首のしょっぱなから、その歌が本人のものかどうかで意見が割れるというのはちょっと不思議ですね。

天智天皇の御製ではないとする説

この歌がもともと天智天皇のものではないとする説によると、万葉集にある「秋田刈る」で始まる作者不明の歌が元歌だということです。農民が刈り取った稲を盗まれないように仮小屋で寝ずの番をしていた、そんな田園での農作業の一こまを描いた歌が、口伝で伝えられるうちに言葉づかいが変わるとともに天智天皇の作とみなされるようになったということです。
そもそも天皇が秋の田んぼで農作業をした後に仮小屋に入って一夜を過ごす、というのもちょっと普通では考えにくいかもしれませんね。誰がつくったかわからない、名もなき農民がつくったかもしれない歌が、いつの間にか天智天皇の作とみなされるようになったというのもちょっと不思議な感じです。

天智天皇の御製であるとする説

この歌が天智天皇のものであるとする説にも興味深いものがあります。
まずは、藤原定家ほどの和歌に精通した人物が、本人のものでない歌を間違えて選んでしまうはずがない、という考えがあります。天智天皇は長年忠実に仕えてくれた中臣鎌足に対し、鎌足の臨終の際に藤原姓を授けたことで知られています。つまり天智天皇によって藤原家が始まったと言えるわけですから、藤原定家が第一首目に天智天皇を選んだはそれだけ藤原家にとって極めて大切なお方だという想いがあるのではないでしょうか。であれば定家も歌選びには慎重になり、本人のものではない歌をうっかり選んだりはしないはずです。もしかしたら天智天皇本人が、神事として稲作をしたことがあるかもしれません。あるいは農民たちが働いているのを視察して、その苦労に思いを馳せてこの歌をつくられたのかもしれません。
大本教の聖師である出口王仁三郎氏は、ちょっと大胆な説を唱えています。都で政変が起き、天智天皇は難を逃れて那須野をさまよっていたのですが、泊まるところがなくて田んぼの仮小屋で野宿をすることになったというのです。刈穂でつくった屋根はとまが荒くて露を防いでくれなかった、その大変な一夜の体験を歌になさったということです。
いずれにせよ、藤原定家がこの歌を第一に選んだのは何か深い意味がありそうです。秋になり稲穂が垂れる田を見るたび、その脇の仮小屋で一夜を過ごす天智天皇のことを思い浮かべて見たくなります。


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