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小倉百人一首について

小倉百人一首について見ていきましょう。小倉百人一首は鎌倉時代に藤原定家が編纂したものです。天智天皇から始まり、順徳院までに至る小倉百人一首について、一首ずつ味わっていきましょう。

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小倉百人一首について

1.秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)を荒み わが衣手は 露に濡れつつ  天智天皇
小倉百人一首は天智天皇の歌から始まります。藤原定家が小倉百人一首の最初に選んだのは、藤原家の始まりと縁の深い第三十八代天皇である天智天皇です。この歌はもともと天智天皇の御製ではないとする説と、いや天智天皇の御製であるとする説があり、解釈が割れています。

2.春過ぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 衣干すてふ(ちょう) 天(あま)の香久山  持統天皇
小倉百人一首の二首目に藤原定家が選んだのは女帝・持統天皇の歌です。第四十一代天皇である持統天皇の父は天智天皇、夫は天武天皇です。息子の草壁皇子が早世されたために女帝として即位しました。この歌は初夏に天の香久山で衣を干す情景をうたったものと見るのが自然ですが、異説もあるようです。

3.あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む  柿本人麻呂
小倉百人一首の三首目は歌聖と称される柿本人麻呂の歌です。柿本人麻呂は三十六歌仙の一人ですが官位が不明で謎の多い人物です。これは本人の歌ではないとする説もありますが、藤原定家が三番目に選んだわけですから、相当重要な歌であると考えるべきかもしれません。

4.田子の浦に うち出(い)でて見れば 白妙(しろたへ)の 富士の高嶺(たかね)に 雪は降りつつ  山部赤人
小倉百人一首の四首目は山部赤人の歌です。山部赤人は聖武天皇のころの宮廷歌人ですが、生没年不詳ですこしミステリアスな雰囲気がある人物です。この歌は富士山に雪が降り積もっている様子を見て詠んだものとされていますが、この情景にはちょっと不思議なところがある気がします。

5.奥山(おくやま)に 紅葉(もみぢ)踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき  猿丸太夫
小倉百人一首の五首目は猿丸太夫の歌です。この猿丸太夫という人も謎に満ちています。三十六歌仙の一人ですが、いつの時代の人かもよくわかっていません。これは、山奥から聞こえてきた鹿の鳴き声を聞いて感じた秋のさみしさを詠んだ歌とされています。

6.かささぎの 渡せる橋に おく霜(しも)の 白きを見れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける  中納言家持
小倉百人一首の六首目は中納言・大伴家持の歌です。大伴家持は三十六歌仙の一人で、万葉集で最も多くの歌を詠んだ人物として知られています。また官吏として能力を発揮し昇進したり、藤原家に対抗して左遷されたりと、波乱の人生を送った人とされています。これは真夏の夜を詠んだ歌との説と、冬の夜に詠んだ歌との説があります。

7.天(あま)の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる 三笠の山に 出(い)でし月かも  安倍仲麿
小倉百人一首の七首目は安倍仲麿(阿倍仲麻呂)の歌です。阿倍仲麻呂は遣唐使として唐の都である長安に留学した才覚ある人物として知られています。これは、唐の玄宗皇帝に気に入られなかなか日本に帰ることが果たせずにいた仲麻呂の望郷の想いを詠んだ歌として知られています。

8.わが庵(いほ)は 都のたつみ しかぞすむ 世(よ)を宇治山(うぢやま)と 人はいうなり  喜撰法師
小倉百人一首の八首目は喜撰法師の歌です。喜撰法師は、平安時代初めごろの真言宗の僧で、六歌仙のひとりとして名高い人です。しかしながら、経歴や生没年などは不詳で謎に満ちた人物です。これは、都から離れて宇治山に隠遁し、平和に生活する喜撰法師自身の心情を詠んだ歌とされています。

9.花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに  小野小町
小倉百人一首の九首目は小野小町の歌です。小野小町は平安時代初期の女流歌人で六歌仙のひとりです。若いころは美女としてもてはやされ大人気だったそうです。しかし高齢になると容色が衰え、落ちぶれてみすぼらしい暮らしをしていたといわれています。これは、年寄りになり容色の衰えた小町自身を短い花のいのちにたとえて嘆きつつ詠んだ歌とされています。

10.これやこの 行(ゆ)くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関  蝉丸
小倉百人一首の十首目は蝉丸の歌です。蝉丸は謎の人物で、宇多天皇のころに宮中に仕えていたとか盲目で琵琶を弾いていたとかいわれますが、定かではなく実在した人物であったかどうかすらもわからないそうです。これは、逢坂の関を行きかう人々を詠んだ歌ですが、人生の出会いと別れを詠んだ歌だとも言われています。独特のリズム感覚と言葉の特徴的な使いまわしで人々の記憶に残りやすい歌です。

11.わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと 人には告げよ 海士(あま)の釣り船  参議篁
小倉百人一首の十一首目は参議篁の歌です。参議というのは官職で、本名は小野篁です。反骨の士として知られており、出世もなかなか遅かったようです。この歌は、小野篁が隠岐の国に流刑になったときに京の都の人々に向けて詠んだものとされています。島流しになる不安と失望を抱えながらも、あえて強がって明るく振る舞っている小野篁の姿が目に浮かびます。

12.天津風(あまつかぜ) 雲の通(かよ)ひ路(じ) 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ  僧正遍昭
小倉百人一首の十二首目は僧正遍昭の歌です。僧正遍照は天台宗の僧侶で六歌仙のひとりであり、また三十六歌仙の一人でもあります。桓武天皇の孫という高貴な血筋ですが、仁明天皇の崩御と共に出家したそうです。これは僧正遍昭の出家前の作で、五節の舞姫を見てずっとその美しい姿を見ていたいという思いを詠んだ歌とされています。

13.筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる 男女川(みなのがは) 恋(こひ)ぞ積(つ)もりて 淵(ふち)となりぬる  陽成院
小倉百人一首の十三首目は陽成院の歌です。陽成院とは第五十七代である陽成天皇のことです。陽成天皇は、わずか九歳のときに清和天皇から譲位を受けており、十七歳という若さで病のため光孝天皇に譲位しています。この歌は、流れ落ちる川がだんだん深くなっていくように、だんだん深まっていく恋する気持ちを詠んだものとされています。筑波嶺は現在の茨城県にある筑波山のことです。

14.陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにし われならなくに  河原左大臣
小倉百人一首の十四首目は河原左大臣こと源融(みなもとのとおる)の歌です。源融は嵯峨天皇の第十二皇子でしたが、源の姓を賜って臣籍降下し、後に左大臣にまでなった人です。この歌は、しのぶ恋によりかき乱されている心情を詠んだものとされています。「しのぶ」は、片思いの気持ちを心に秘めながら思い悩んでいる状況をあらわす言葉として、和歌ではよく使われます。

15.君がため 春の野に出でて 若菜摘む わが衣手に 雪はふりつつ  光孝天皇
小倉百人一首の十五首目は光孝天皇の歌です。第五十八代天皇の光孝天皇は仁明天皇の第三皇子でした。親王として宮廷の役職に就いていましたが、陽成天皇が十七歳という若さで譲位することになり、急きょ五十五歳で天皇になったそうです。この歌は、恋人のために春の七草の若菜摘みをしている情景を詠んだものです。天皇になってから若菜摘みをするとは考えにくいので、おそらくは親王として仕えていたときに詠んだ歌なのでしょう。

16.立ち別れ 因幡(いなば)の山の 峰に生(お)ふる まつとし聞かば 今帰(かへ)り来(こ)む  中納言行平
小倉百人一首の十六首目は中納言行平こと在原行平の歌です。行平は阿保親王の子でしたが、臣籍に降下し兄弟と共に在原朝臣の姓を賜ります。あの在原業平の兄、と言った方がわかりやすいかもしれません。これは、行平が因幡守に任ぜられて赴任地に赴く際に詠んだ別れの歌とされています。「待っていると聞いたら今すぐにでも帰ってくるよ」と詠まれていることで、別れた人や動物とすぐに再開できるようにと願掛けをする歌としても有名です。

17.ちはやぶる 神代(かみよ)も聞(き)かず 龍田川(たつたがは) からくれなゐに 水くくるとは  在原業平朝臣
小倉百人一首の十七首目は在原業平朝臣の歌です。在原業平は行平の兄弟でともに平城天皇の孫、阿保親王の子であり、臣籍に降下し在原朝臣の姓を賜っています。業平は六歌仙のひとりとして、また伊勢物語の主人公ともいわれており恋多きプレイボーイとして有名です。この歌は龍田川(竜田川)を紅葉が真っ赤に染めた様を見て、その美しさに感嘆して詠んだものとされています。

18.住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通(かよ)ひ路(ぢ) 人めよくらむ  藤原敏行朝臣
小倉百人一首の十八首目は藤原敏行朝臣の歌です。藤原敏行は三十六歌仙の一人で、陸奥出羽の按察使・藤原富士麻呂の子とされています。第五十六代の清和天皇から第六十代の醍醐天皇までの長い間宮廷に仕え、また書の達人といわれていますが、生没年は定かでなく謎の多い人です。この歌は、あなたは人目を気にして逢ってくれないのか、夢の中でくらい逢ってほしいと、恋い焦がれる相手への思いを詠んだものです。

19.難波潟(なにわがた) みじかきあしの ふしの間も あはでこの世を 過ぐしてよとや  伊勢
小倉百人一首の十九首目は伊勢の歌です。伊勢は三十六歌仙の一人で、伊勢守藤原継蔭の娘です。宇多天皇の中宮に仕えていましたが、公家たちとの交際を経て、宇多天皇の寵愛を受けました。またその後、宇多天皇の皇子と結婚しています。この歌は、ほんの短い間も逢ってくれないままずっとこの世を過ごせと言うのかと、逢ってくれない恋する相手への思いを詠んだものです。

20.わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思う  元良親王
小倉百人一首の二十首目は元良親王の歌です。元良親王は陽成天皇が譲位した後に生まれた第一皇子です。とても風流で女好きだったそうで、大和物語や今昔物語に登場して逸話を残しています。とりわけ宇多院の妃との熱愛の噂が有名です。この歌は、これだけ思い悩んだのだから、身を滅ぼしてもあなたに逢おうと思うと、逢いたい強い気持ちを詠んだものです。

21.今こむと いひしばかりに 長月(ながつき)の 有明(ありあけ)の月を まちいでつるかな  素性法師
小倉百人一首の二十一首目は素性法師の歌です。素性法師は三十六歌仙の一人で、僧正遍昭が在俗のときに生まれた子だそうです。ということは桓武天皇のひ孫ですね。早くから出家したのですが、歌会などにしばしば招かれるなど、宮廷に近い僧侶・歌人として活躍しました。この歌は、愛する人が今来るよと言ったばかりに夜も寝ずに待ち続けた女性のせつない気持ちを詠んだものです。

22.吹くからに 秋の草木(くさき)の しをるれば むべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)といふらむ  文屋康秀
小倉百人一首の二十二首目は文屋康秀の歌です。文屋康秀は六歌仙の一人で、地位はそれほど高くありませんが、三河に赴任する際に小野小町を誘ったことで知られています。歌の上手い人はプレイボーイが多いのでしょうか。この歌は、「吹けばたちまち秋の草木がしおれるのだから、いかにも山風を嵐というのだろう」と解釈されます。

23.月見れば 千々(ちぢ)にものこそ 悲しけれ 我が身一つの 秋にはあらねど  大江千里
小倉百人一首の二十三首目は大江千里の歌です。百人一首の大江千里は「おおえのちさと」と読みます。大江千里は宇多天皇のころに活躍した儒学者および歌人で、しばしば歌会に出るだけでなく、勅命により歌集をつくり、献上したこともあったそうです。この歌は、秋の月を見ているうち物悲しくなった心情を詠んだ歌です。

24.このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみじ)の錦 神のまにまに  菅家
小倉百人一首の二十四首目は菅家の歌です。菅家というのは学問の神様として知られる菅原道真公のことです。菅原道真は優秀で智恵があり、宇多天皇に重用されるなどして右大臣まで出世しましたが、藤原時平の陰謀により大宰府に左遷されました。この歌は、道真が行幸に同行した際、神様にささげる幣を用意できなかったので詠んだ歌だとされています。

25.名にしおはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 人に知られで くるよしもがな  三条右大臣
小倉百人一首の二十五首目は三条右大臣の歌です。三条右大臣というのは藤原定方(ふじわらのさだかた)のことです。藤原定方は宇多天皇から朱雀天皇のころまで宮廷に仕えていた貴族であり歌人です。京の三条に住んでいた右大臣なので三条右大臣と呼ばれるようになったようです。この歌は、人目を忍んで逢瀬を待ち望む、そんな恋心を詠んだ歌だとされています。

26.をぐら山 峰の紅葉(もみぢ)ば 心あらば いまひとたびの みゆきまたなむ  貞信公
小倉百人一首の二十六首目は貞信公の歌です。貞信公というのはおくり名で、朱雀天皇の御代に摂政・関白を勤めた藤原忠平(ふじわらのただひら)のことです。貞信公のころあたりから藤原氏が権力を得て大いに栄える時代が始まります。この歌は、小倉山の紅葉に感銘し、天皇がもう一度行幸なさるまでこの美しい紅葉が待ってくれないかと詠んだものです。

27.みかのはら わきてながるる 泉河(いづみがは) いつ見きとてか 恋(こひ)しかるらむ  中納言兼輔
小倉百人一首の二十七首目は中納言兼輔こと藤原兼輔の歌です。藤原兼輔は三十六歌仙のひとりで、賀茂川の堤に住居を構えていたので堤中納言と呼ばれていました。藤原北家の家系で紫式部の曽祖父だそうです。この歌は、いつ会ったのかも覚えていないほど長く会っていない人に会いたいと強く思う、そんな恋い焦がれる気持ちを詠んだものとされています。

28.山里(やまざと)は 冬ぞさみしさ まさりける 人目も草も かれぬとおもへば  源宗于朝臣
小倉百人一首の二十八首目は源宗于(みなもとのむねゆき)朝臣の歌です。源宗于は三十六歌仙のひとりで、光孝天皇の孫であり、是忠親王の子だそうです。血筋は良いですが、あまり出世に興味がないのか官位はそれほど高くなかったようです。この歌は、人もいなくなり、草木も枯れていってさみしくなる山里の冬の情景を詠んだものです。

29.心あてに 折らばや折らむ 初霜(はつしも)の おきまどはせる 白菊(しらぎく)の花  凡河内躬恒
小倉百人一首の二十九首目は凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌です。凡河内躬恒は三十六歌仙のひとりで、宮廷歌人として名高いですが、地位はそれほど高くなく生没年不詳で謎のある人物です。この歌は、霜の降りる寒い朝に、白菊の花が見分けつかなくなっている情景を詠んだ歌とされています。

30.有明(ありあけ)の つれなくみえし 別れより 暁ばかり うきものはなし  壬生忠岑
小倉百人一首の三十首目は壬生忠岑(みぶのただみね)の歌です。壬生忠岑は三十六歌仙のひとりで、歌人として評価の高い人物ですが、身分は低く家柄など不明な点が多い人物です。この歌は、夜明けの別れとその悲しみを思い出すつらさを詠んだ歌とされています。

31.朝朗(あさぼらけ) 有明(ありあけ)の月と 見るまでに 芳野(よしの)の里に ふれるしら雪   坂上是則
小倉百人一首の三十一首目は坂上是則(さかのうえのこれのり)の歌です。坂上是則は三十六歌仙のひとりで、官位は従五位下とあまり出世しませんでしたが蹴鞠が得意で歌人としての評価も高かったようです。この歌は、吉野の里の明け方に雪が降っているさまを詠んだ歌とされています。

32.山川に 風のかけたる しがらみは ながれもあへぬ 紅葉(もみじ)なりけり   春道列樹
小倉百人一首の三十二首目は春道列樹(はるみちのつらき)の歌です。春道列樹は官位も低く、歌人としてもそれほど有名な作品を多く残したわけではありません。藤原定家が彼の歌を百人一首に選ばなければ、もしかしたらその名は残らなかったかもしれません。この歌は、散って川に落ちた紅葉が、しがらみにとどまっている秋の情景を詠んだ歌とされています。

33.久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ   紀友則
小倉百人一首の三十三首目は紀友則(きのとものり)の歌です。紀友則は三十六歌仙の一人で、40過ぎまで官職に就けませんでしたが、歌人としての評価は非常に高かったようです。歌合(歌会)にもよく出ていて、従兄弟である紀貫之、壬生忠岑と共に「古今和歌集」の撰者に選ばれています。この歌は、桜の花があわただしく散っていく様子を悲しげに詠んだ歌とされています。

34.誰(たれ)をかも 知る人にせむ 高砂(たかさご)の 松もむかしの ともならなくに   藤原興風
小倉百人一首の三十四首目は藤原興風(ふじわらのおきかぜ)の歌です。藤原興風は三十六歌仙の一人で、当時の代表的な歌人であり、古今和歌集などに歌を多く残しています。興風は藤原四家のひとつ藤原京家と家柄は良いですが官位は低くあまり出世しませんでした。この歌は、知人・友人が誰もいなくなってさみしくなった孤独な心情を詠んだ歌とされています。

35.人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香(か)ににほいける   紀貫之
小倉百人一首の三十五首目は紀貫之(きのつらゆき)の歌です。紀貫之は三十六歌仙の一人で、従兄弟である紀友則、壬生忠岑と共に「古今和歌集」の撰者となっています。当時の歌人としての評価は絶大であり、古今和歌集には最も多くの作品が収められています。また、「土佐日記」の作者としても知られています。この歌は、昔よく行っていた宿に久しぶりに泊まった際、宿の主人に言われた言葉を受けて、そこにあった梅の花を折って詠んだものです。

36.夏の夜は まだ宵(よひ)ながら あけぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ   清原深養父
小倉百人一首の三十六首目は清原深養父(きよはらのふかやぶ)の歌です。清原深養父は古今和歌集に多くの作品が入集するなど歌人として評価が高い人で、清少納言の曽祖父にあたる人です。深養父は三十六歌仙には残念ながら選ばれませんでしたが、後に中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、夏の夜に明け方まで過ごしていたら月が雲に隠れて見えなくなってしまった、そんな情景を詠んだ歌です。

37.白露(しらつゆ)に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける   文屋朝康
小倉百人一首の三十七首目は文屋朝康(ぶんやのあさやす)の歌です。文屋朝康は六歌仙である文屋康秀の息子で、歌合に多く出詠するなど歌人として活躍しましたが、古今集にはわずか一首しか選ばれていません。この歌は、風の吹く秋の野原の情景を詠んだ歌とされています。

38.忘らるる 身をば思はず 誓(ちか)ひてし 人の命の 惜しくもあるかな   右近
小倉百人一首の三十八首目は右近(うこん)の歌です。右近は醍醐天皇の中宮に仕えた女房で、右近近衛少将である藤原季縄の娘なので右近と呼ばれていたそうです。この歌は、恋愛関係にあった男性に忘れられてしまった女性の深い恨み心を感じさせる歌として有名です。女子を怒らせると怖いですから世の男子諸君は気をつけなさいよ。そんな教訓にもなりそうな歌ですね。

39.浅茅生(あさじふ)の 小野(をの)の篠原(しのはら) 忍(しの)ぶれど あまりてなどか 人の恋(こひ)しき   参議等
小倉百人一首の三十九首目は参議等(さんぎひとし)こと源等(みなもとのひとし)の歌です。源等は嵯峨源氏の血筋で、醍醐天皇から村上天皇の時代にかけて活躍しました。最終官位が参議の正四位下なので、百人一首では参議等となっています。この歌は、人に知られないように忍び続けてきた恋が耐えられなくなって、恋しさがあふれてきた心情を詠んだ歌です。

40.忍(しの)ぶれど 色に出でにけり わが恋(こひ)は ものや思うと 人の問うまで   平兼盛
小倉百人一首の四十首目は平兼盛(たいらのかねもり)の歌です。平兼盛は平安時代の貴族であり、平安中期の有力歌人です。歌合でよく活躍しており、三十六歌仙の一人に選ばれています。光孝天皇の玄孫とされ兼盛王と称していましたが、臣籍降下してからは地方官を勤めることが多かったようです。この歌は、村上天皇の天徳歌合において「恋」をテーマにして詠んだ有名な歌です。

41.恋すてふ(ちょう) わが名はまだき たちにけり 人知れずこそ 思いそめしか   壬生忠見
小倉百人一首の四十一首目は壬生忠見(みぶのただみ)の歌です。壬生忠見は平安時代中期に活躍した歌人で、父の忠岑と親子で三十六歌仙に選ばれています。歌人としては有名ですが、あまり出世はできなかったようで経歴や生没年など不明な点が多いです。この歌は、村上天皇の天徳歌合において「恋」をテーマにして平兼盛の歌と対決した有名な歌です。

42.契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末(すゑ)の松山 波越さじとは   清原元輔
小倉百人一首の四十二首目は清原元輔(きよはらのもとすけ)の歌です。清原元輔は平安時代中期の貴族であり清原深養父の孫、清少納言の父親です。三十六歌仙に選ばれるなど歌人としても高名で、和歌所寄人に任命されています。この歌は、愛しあった相手の心変わりを嘆いた失恋の歌です。

43.あひ見ての 後(のち)の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり   権中納言敦忠
小倉百人一首の四十三首目は権中納言敦忠(ごんちゅうなごんあつただ)こと藤原敦忠(ふじわらのあつただ)の歌です。藤原敦忠は左大臣の藤原時平を父に持つ家系で、参議から権中納言へと出世しますが、出世の後まもなく死去しました。優れた歌人で三十六歌仙の一人に選ばれているとともに、琵琶の名手で琵琶中納言とも呼ばれていたそうです。この歌は、逢い見た後にいや増して恋心が深まっていく思いを詠んだ歌とされています。

44.あふことの 絶えてしなくば なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし   中納言朝忠
小倉百人一首の四十四首目は中納言朝忠(ちゅうなごんあさただ)こと藤原朝忠(ふじわらのあさただ)の歌です。藤原朝忠は右大臣・藤原定方を父に持つ人で、最終官位が中納言なので小倉百人一首では中納言朝忠となっています。三十六歌仙の一人で歌合などで活躍していたようです。この歌は、逢うこととができるのになかなか逢えない恋のつらさを詠んだ歌とされています。

45.あはれとも いふべき人は 思ほへで 身のいたづらに なりぬべきかな   謙徳公
小倉百人一首の四十五首目は謙徳公(けんとくこう)こと藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の歌です。藤原伊尹は藤原北家の家柄で、出世して摂政にまでなっています。最終官位は太政大臣で謙徳公というのはおくり名です。歌人としても名高く和歌所の別当になっています。また、親の言いつけに従わず贅沢で派手好きだったといわれています。この歌は、そんな時代の権力者である謙徳公が上手くいかない恋のつらさを詠んだものです。

46.由良(ゆら)のとを 渡る舟人(ふなびと) かぢをたえ ゆくへも知らぬ 恋(こひ)の道かな   曽禰好忠
小倉百人一首の四十六首目は曽禰好忠(そねのよしただ)の歌です。曽禰好忠は官位は高くなく丹後掾を長く務めていたことは知られていますが生没年不詳で謎の多い人です。尊大で人づきあいが悪く、存命中は歌人たちの集まりから仲間外れにされ評価も低かったようです。しかし、後世になって歌人としての評価が高まり、中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、どうなっていくのかわからない自分の恋の不安やもどかしさを詠んだものです。

47.八重(やへ)むぐら しげれる宿(やど)の さびしきに 人こそ見えね 秋はきにけり   恵慶法師
小倉百人一首の四十七首目は恵慶法師(えぎょうほうし)の歌です。恵慶法師は花山天皇のころに歌人として活躍した人で、中古三十六歌仙の一人です。生没年不詳で不明な点が多い人ですが、源氏の血筋といわれています。この歌は、京都六条にあった河原左大臣こと源融(みなもとのとおる)の住まいである河原院にて、歌人たちが荒れた宿に秋が来たというテーマで詠みあった際に詠んだ歌とされています。

48.風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕(くだ)けてものを 思ふころかな   源重之
小倉百人一首の四十八首目は源重之(みなもとのしげゆき)の歌です。源重之は清和源氏の血筋で村上天皇から円融天皇のころにかけて歌人として活躍しました。官位はそれほど高くありませんが歌人としては有名で、三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、強い風によって岩に打ち付けられた波のように、失恋で打ち砕かれた男の悲しい心情を詠んだ歌とされています。

49.御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ   大中臣能宣
小倉百人一首の四十九首目は大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)の歌です。大中臣の家は代々伊勢神宮の祭主を務める家柄で、能宣も伊勢神宮祭主となっています。歌人としての評価は高く、和歌所寄人である梨壺の五人の一人として歌合や屏風歌などで活躍し三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、宮中の衛士が焚く火のように燃えては消える恋の苦しい気持ちを詠んだ歌とされています。

50.君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな   藤原義孝
小倉百人一首の五十首目は藤原義孝(ふじわらのよしたか)の歌です。藤原義孝は藤原北家の家柄で摂政までなった謙徳公こと藤原伊尹(ふじわらのこれただ)の三男だそうです。信心深く美男子で歌も上手く、出世も早くて期待されていたようですが、当時の流行り病にかかって兄と共に二十一歳の若さで亡くなりました。後に中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、想いを遂げてますます高まっていく恋心を詠んだ歌とされています。

51.かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃(も)ゆる思ひを   藤原実方朝臣
小倉百人一首の五十一首目は藤原実方朝臣(ふじわらのさねかたあそん)の歌です。藤原実方は藤原北家の血筋で、貞信公の五男であり小一条流の祖である左大臣・藤原師尹の孫です。才覚のある風流な人で順調に昇進していましたが、一条天皇のころに突如地方に左遷され、出向先でおよそ四十歳ほどで没したそうです。後に中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、秘めた恋がますます燃え上がっていく苦しい想いを詠んだ歌とされています。

52.あけぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな   藤原道信朝臣
小倉百人一首の五十二首目は藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)の歌です。藤原道信は藤原北家の血筋で、太政大臣・藤原為光の三男です。また、伯父には花山天皇を出家させたことで知られる藤原兼家がいます。恵まれた家柄もあって順調に出世していましたが伯父や父を喪った後、二十三歳の若さで亡くなっています。和歌が上手く後に中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、好きな女性と一夜を過ごした後、夜明けになって別れたくない気持ちを詠んだ歌とされています。

53.嘆きつつ ひとり寝(ぬ)る夜(よ)の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る   右大将道綱母
小倉百人一首の五十三首目は右大将道綱母の歌です。右大将道綱母は蜻蛉日記の作者であり、また摂政・関白・太政大臣を務めた藤原兼家の第二夫人となって藤原道綱を産んだ女性です。容姿麗しく、日本本朝三大美人の一人とされています。また和歌の評価もとても高く、中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、夫が外に出かけて浮気をしていて、夜帰ってこないのを嘆いている夫人の恨めしい気持ちを詠んだ歌とされています。

54.忘れじの 行(ゆ)く末(すゑ)までは 難(かた)ければ 今日(けふ)を限(かぎ)りの 命ともがな   儀同三司母
小倉百人一首の五十四首目は儀同三司母の歌です。儀同三司母というのは藤原伊周(ふじわらのこれちか)の母のことで、関白・藤原道隆の妻です。「儀同三司」は官職の唐名で左大臣・右大臣に準ずる地位という意味です。和歌に秀でており漢詩の才能もあって宮中では人気でした。しかし夫の死後、息子たちが藤原道長との権力争いに敗れ、失意のうちに病死します。これは、告白を受け愛の絶頂にある女性が将来への不安と、このまま死にたいとさえ思う気持ちを詠んだ歌とされています。

55.滝の糸は 絶へて久しく なりぬれど 名こそ流れて なを聞こへけれ   大納言公任
小倉百人一首の五十五首目は大納言公任の歌です。大納言公任というのは藤原公任(ふじわらのきんとう)のことで、関白太政大臣・藤原頼忠の長男です。家柄も良く順調に出世していましたが、藤原道長が台頭してくると官位を追い抜かれ、一条天皇の時代には四納言の一人として道長の政治を支える立場になります。多才で和歌や漢詩、管弦に秀でており、当時の歌壇の第一人者で、三十六歌仙を選んだことで知られています。最終官位は権大納言、また中古三十六歌仙に選ばれています。この歌は、すでになくなってしまった滝が、その名声だけは今でも聞こえてくると詠んだものです。

56.あらざらむ 此(この)世の外(ほか)の 思ひ出に いまひとたびの 逢ふ事もがな   和泉式部
小倉百人一首の五十六首目は和泉式部(いずみしきぶ)の歌です。和泉式部は大江雅致の娘で、和泉守・橘道貞の妻でしたが、後に藤原保昌と再婚し丹後国に下っています。「和泉式部」というのは父の官職名と最初の夫の赴任先とをあわせたものです。恋心を自由に、表現力豊かに詠むことで評判になり、歌人としての評価は高く中古三十六歌仙および女房三十六歌仙に選ばれています。また、和泉式部日記を残したことでも知られています。この歌は、死ぬ前にもう一度逢いたいと、女性の強い恋心を表現した歌として有名です。

57.めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲隠れにし 夜半(よは)の月かな   紫式部
小倉百人一首の五十七首目は紫式部(むらさきしきぶ)の歌です。紫式部はまさに平安時代絶頂期を代表する人物といっていいでしょう。彼女は平安時代の女官で、「源氏物語」および「紫式部日記」の著者として有名です。歌人としても名高く中古三十六歌仙および女房三十六歌仙に選ばれています。また和歌集に「紫式部集」があります。この歌は、幼馴染と久しぶりに逢うことのできた時間の短さをさみしく思う気持ちを詠んだものとされています。

58.有馬山(ありまやま) 猪名(ゐな)の笹原(ささはら) 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする   大弐三位
小倉百人一首の五十八首目は大弐三位(だいにのさんみ)の歌です。大弐三位というのは平安中期の女官・歌人で、紫式部の娘として知られており、女房三十六歌仙に選ばれています。父は藤原宣孝で、藤三位(とうのさんみ)とも呼ばれています。この歌は、しばらく逢いに来なかった男から、「あなたが心変わりしたのではないかと不安だ」と手紙を送って来たので詠んだものとされています。

59.やすらはで 寝なましものを さ夜ふけて 傾(かたぶ)くまでの 月を見しかな   赤染衛門
小倉百人一首の五十九首目は赤染衛門(あかぞめえもん)の歌です。赤染衛門は平安中期に活躍した歌人で、出自が不明な点もありますが右衛門志であった赤染時用(あかぞめのときもち)の娘なので赤染衛門と呼ばれるようになったそうです。歌人としての評価は高く、しばしば和泉式部と対比され、また後に中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、来る約束をしていた男性を待っていたが来なかったので夜更けの月が傾くのを見るまで起きてしまった女性の状況を詠んだものです。

60.大江山(おほえやま) いく野の道の 遠(とほ)ければ まだふみも見ず 天の橋立   小式部内侍
小倉百人一首の六十首目は小式部内侍(こしきぶのないし)の歌です。小式部内侍は和泉式部の娘で、母と同じく一条天皇の中宮・彰子に出仕していました。母と共に恋多き女性として知られていましたが二十代で出産した際に命を落としてしまいます。歌人としての評価も高く女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、彼女が母親の和泉式部に代作してもらっているのではないかと藤原定頼に疑いの言葉をかけられたときに詠んだものです。

61.いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ(今日)九重に にほひぬるかな   伊勢大輔
小倉百人一首の六十一首目は伊勢大輔(いせのたいふ)の歌です。伊勢大輔は伊勢神宮の祭主である大中臣輔親(おおなかとみのすけちか)の娘で、一条天皇の中宮・彰子に仕え、和泉式部や紫式部などと交流があったことで知られています。歌人として細やかな気遣いのある歌が評判で、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、紫式部から八重桜を受け取る役を譲られたとき、機転を利かせて詠んだものとして知られています。

62.夜(よ)をこめて 鳥の空音(そらね)は はかるとも よに逢坂(あふさか)の 関はゆるさじ   清少納言
小倉百人一首の六十二首目は清少納言の歌です。彼女は清原元輔の娘で、「清少納言」というのは中宮に女房として仕えていた際の宮中での呼び名です。随筆「枕草子」の作者で、紫式部と並び称される平安時代の代表的文学作者です。和歌はそれほど得意でなかったそうですが、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、藤原行成とのやりとりの中で詠んだものとして知られています。

63.今はただ 思ひたえなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな   左京大夫道雅
小倉百人一首の六十三首目は左京大夫道雅(さきょうのだいふみちまさ)こと藤原道雅(ふじわらのみちまさ)の歌です。藤原道雅は内大臣・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の息子で、順調に出世していた父の伊周が花山法皇に矢を射かける事件により失脚し、没落の家で育ちます。悪行の噂ありあまり評判の良くない道雅ですが、和歌の評判は良く、中古三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は逢うことを許されなくなった当子内親王に贈ったものとして知られています。

64.朝ぼらけ 宇治のかはぎり たえだえに あらはれわたる 瀬々(せぜ)の網代木(あじろぎ)   権中納言定頼
小倉百人一首の六十四首目は権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)こと藤原定頼(ふじわらのさだより)の歌です。藤原定頼は当時の歌壇の第一人者であった藤原公任の長男で、歌の評価はなかなか良くて中古三十六歌仙の一人に選ばれています。恋多き人で、小式部内侍をからかって逆に歌でやり込められたとの話が残されています。この歌は夜明けの宇治川の美しい景色の変化を詠んだ歌として有名です。

65.うらみわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを 恋(こひ)に朽ちなむ 名こそ惜しけれ   相模
小倉百人一首の六十五首目は相模(さがみ)の歌です。相模は平安後期の女房・歌人で、生没年など不明な点も多いですが夫の大江公資の任地である相模国にちなんで相模と呼ばれるようになったそうです。歌人としての評価はとても高く、中古三十六歌仙および女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は失恋により恨み嘆く女性の情念を詠んだものです。

66.もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし   前大僧正行尊
小倉百人一首の六十六首目は前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)の歌です。行尊は天台宗の僧侶で、大僧正というのは一般に僧侶の最高位のことをいいます。行尊は身分の高い家柄に生まれながら若くして出家し、天台座主までなった人です。修験者として熊野や山岳地帯などで修業していたと伝えられており、また歌人としてとても有名です。この歌は山で修業をしていた際に、山桜を見て詠んだものとされています。

67.春のよの 夢ばかりなる 手枕(たまくら)に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ   周防内侍
小倉百人一首の六十七首目は周防内侍(すおうのないし)の歌です。周防内侍は平安後期の女房・歌人で、父が周防守なので周防内侍と呼ばれていました。歌人としての評価は高く女房三十六歌仙の一人に選ばれています。最初は後冷泉天皇に出仕していましたが崩御により一旦家に戻り、それから後三条天皇に再出仕し、さらに白河天皇、堀河天皇に出仕しました。この歌は周防内侍が枕があれば良いなと言ったところ、藤原忠家が腕を差し出してきたため詠んだものとされています。

68.心にも あらでうき世に ながらへば 恋(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月かな   三条院
小倉百人一首の六十八首目は三条院の歌です。三条院とは第六十七代である三条天皇のことで、当時実権を握っていた藤原道長と対立して苦難を受け続けた天皇として知られています。三条天皇は冷泉天皇の第二皇子で、三十六歳でようやく即位しましたが視力を失ってから道長にしきりに譲位を迫られます。結局、即位後五年足らずで譲位し、その翌年に出家してわずか四十二歳で崩御します。この歌は三条天皇が譲位の際に詠んだものとされています。

69.あらし吹く み室(むろ)の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり   能因法師
小倉百人一首の六十九首目は能因法師の歌です。能因法師は平安中期の僧侶であり歌人で、中古三十六歌仙の一人に選ばれています。僧侶といっても一つのお寺に定住することなく、日本各地を旅しつつ歌を詠んでいたそうです。そんな能因法師の自由な生きざまは人々の敬愛を集め、後々の世まで影響を与えています。この歌は紅葉の季節の竜田川の美しさを詠んだものです。

70.寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ   良暹法師
小倉百人一首の七十首目は良暹法師(りょうぜんほうし)の歌です。良暹法師は平安中期の僧侶であり天台宗の祇園山別当ですが、出自など不明で謎の多い人です。歌人としても有名とは言えず、百人一首に選ばれなければその名を現代まで知られることはなかったかもしれません。この歌はさみしい秋の夕暮れのようすを詠んだ、味わい深い歌です。

71.夕(ゆふ)されば 門田(かどた)の稲葉 おとづれて 蘆(あし)のまろやに 秋風ぞ吹く   大納言経信
小倉百人一首の七十一首目は大納言経信(だいなごんつねのぶ)こと源経信の歌です。源経信は宇多源氏の氏族で、平安後期の公家・歌人であり、民部卿であった源道方の六男です。藤原氏ばかりが出世する時代で大納言まで出世するほど才能豊かで、歌もずば抜けて優れていたそうですが、藤原氏が支配する当時の歌壇では評価されにくかったようです。この歌は、田に佇む家に吹く秋風をテーマにして詠んだものです。

72.音にきく たかしの浜の あだ波は かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ   祐子内親王家紀伊
小倉百人一首の七十二首目は祐子内親王家紀伊(ゆうしないしんのうけのきい)の歌です。祐子内親王家紀伊というのは後朱雀天皇の第三皇女である祐子内親王に仕えていた紀伊という女房ということです。平経方の娘だとか、あるいは藤原師長の娘だとか言われていますが定かではなく、生没年も不詳でわからないことの多い人ですが、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は若い男性から恋の歌を贈られその返事として詠んだものです。

73.高砂の をのへの桜 咲きにけり 外山(とやま)のかすみ たたずもあらなむ   権中納言匡房
小倉百人一首の七十三首目は権中納言匡房(ごんちゅうなごんまさふさ)こと大江匡房の歌です。大江匡房は平安時代後期の学者であり歌人です。学者の家柄に生まれ幼いころから学才豊かだったそうですが、若いころは貧乏で役職も得られず出家も考えていたようです。後三条天皇の頃から取り立てられるようになってだんだん実力を発揮していきます。この歌は高い山に咲く美しい桜を詠んだものです。

74.憂(う)かりける 人を初瀬(はつせ)の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを   源俊頼朝臣
小倉百人一首の七十四首目は源俊頼朝臣(みなもとのとしよりあそん)の歌です。源俊頼は大納言経信こと源経信の三男であり、あまり出世しませんでしたが、藤原基俊とともに平安時代後期に活躍した歌人です。技巧の上手さと斬新さで評価が高く、後々まで多くの人々に影響を与えてきたと言われています。この歌は観音様に祈ってもなかなか実らぬ恋につらい思いをしている心情を詠んだものです。

75.契りおきし させもがつゆを 命(いのち)にて あはれ今年の 秋も去(い)ぬめり   藤原基俊
小倉百人一首の七十五首目は藤原基俊(ふじわらのもととし)の歌です。藤原基俊は藤原北家の血筋で藤原道長のひ孫、右大臣であった藤原俊家の四男と名門の家柄に生まれ育ったものの、あまり出世はしなかったようです。ただ歌の評判はとても良く、源俊頼朝臣とともに当時の歌壇のリーダー的存在として活躍しました。この歌は、息子の栄誉を願って頼みごとをしたのにかなわなかった嘆きを詠んだものです。

76.わたの原 漕(こ)ぎ出でて見れば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波   法性寺入道前関白太政大臣
小倉百人一首の七十六首目は法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじにゅうどうさきのかんぱくだじょうだいじん)こと藤原忠道(ふじわらのただみち)の歌です。藤原忠道は若くして摂政・関白・太政大臣となり、晩年には出家して法性寺関白と呼ばれました。保元の乱で次の七十七首目に出てくる崇徳上皇や弟の藤原頼長と対立し勝利しますが、そのあたりから摂関政治は力を失っていき、武士が台頭してきます。この歌は、海の上で遠くを望むという題で崇徳天皇の前にて詠んだものとされています。

77.瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ   崇徳院
小倉百人一首の七十七首目は崇徳院(すとくいん)の歌です。崇徳院とは第七十五代である崇徳天皇のことです。崇徳天皇はわずか満三歳で鳥羽天皇の譲位を受けており、満二十二歳で近衛天皇に譲位しています。その後、保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流されました。この歌は岩にせき止められて別れて流れ落ちていく滝川の情景に、別れてしまった恋人に逢いたいという想いを寄せて詠んだものとされていますが、異説もあるようです。

78.淡路島(あはぢしま) かよふ千鳥(ちどり)の 鳴く声(こゑ)に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守(せきもり)   源兼昌
小倉百人一首の七十八首目は源兼昌(みなもとのかねまさ)の歌です。源兼昌は平安時代後期の貴族であり歌人で生没年不詳の人です。宇多源氏の氏族ですがあまり出世せず最終官位は従五位下の皇后宮少進で、その後出家しています。歌合によく出詠していたようですが、残っている作品はあまり多くありません。この歌は源氏物語の主人公・光源氏が須磨の地で詠んだ歌を踏まえたものだそうです。

79.秋風に たなびく雲の 絶(た)え間より もれいづる月の 影のさやけさ   左京大夫顕輔
小倉百人一首の七十九首目は左京大夫顕輔(さきょうのだいふあきすけ)こと藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)の歌です。藤原顕輔は平安時代後期の公家・歌人で、六条藤家の祖である藤原顕季の三男です。数々の歌合などで詠歌し、父より人麻呂影供を受け継ぎ、崇徳上皇の命を受けて詞花和歌集を編纂するなど、歌道家たる六条藤家の二代目として大いに活躍しました。この歌は秋の雲の切れ間からこぼれてくる月光の美しさを詠んだものです。

80.長(なが)からむ 心もしらず 黒髪(くろかみ)の 乱れて今朝は 物をこそ思へ   待賢門院堀河
小倉百人一首の八十首目は待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)の歌です。待賢門院堀河は平安時代後期の女房・歌人で、生没年や夫の名前などわからないことが多いですが、白河院皇女や鳥羽天皇の中宮である藤原璋子(待賢門院)に女房として仕えていました。、崇徳天皇の譲位後、璋子が落飾するに従って出家したそうです。歌人としての評価は非常に高く、中古六歌仙および女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、男性の心変わりを心配して乱れた黒髪のように心乱れ思い悩む女性の気持ちを詠んだものです。

81.ほととぎす 鳴きつる方を 眺(なが)むれば ただ有明(ありあけ)の 月ぞ残れる   後徳大寺左大臣
小倉百人一首の八十一首目は後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)こと徳大寺実定(とくだいじさねさだ)の歌です。徳大寺実定は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で、徳大寺左大臣と呼ばれていた徳大寺家の祖・徳大寺実能(さねよし)の孫です。彼の歌人としての活動は平家が台頭して政治的に活躍できなかった頃に集中していたそうです。この歌は、ホトトギスの鳴き声と夜明けの月の情景が美しく表現されたものです。

82.思ひわび さても命は あるものを 憂(う)きに堪へぬは 涙なりけり   道因法師
小倉百人一首の八十二首目は道因法師(どういんほうし)の歌です。道因法師は俗名を藤原敦頼(ふじわらのあつより)といい、平安時代後期の貴族・歌人で最終官位は従五位上、右馬助です。八十三歳ごろに出家して道因と名乗ったそうです。和歌にはとても熱心で、良い歌が詠めるようにと老年になるまで毎月住吉大社まで徒歩で参詣していたとか、出家後も九十過ぎまで歌会に出て熱心に講評を聞いていたとかいわれています。この歌は実らない恋を嘆く気持ちを詠んだものです。

83.世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる   皇太后宮大夫俊成
小倉百人一首の八十三首目は皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり/しゅんぜい)こと藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)の歌です。藤原俊成は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で、小倉百人一首撰者・藤原定家の父であり和歌の師匠です。あまり出世できず崇徳天皇に歌の実力が認められるものの保元の乱以降は不遇となったり、咳病が悪化して六十三歳で出家したりと波乱の道のりでしたが、その後になって後白河院、後鳥羽院に取り立てられ歌壇の第一人者として活躍しました。この歌は、鹿の鳴き声を感じるとともに人生のつらさを考えさせられる味わい深いものです。

84.ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂(う)しと見し世ぞ 今は恋(こひ)しき   藤原清輔朝臣
小倉百人一首の八十四首目は藤原清輔朝臣(ふじわらのきよすけあそん)の歌です。藤原清輔は平安時代末期の公家・歌人で、七十九首目に出てくる左京大夫顕輔の次男です。若いころは父と対立し出世もできず不遇の日々でしたが、五十歳あたりで父から人麻呂影供を受け継いでから、二条天皇に取り立てられるなど六条藤家の三代目として活躍しました。藤原定家の父・俊成とは歌会などで対抗する立場だったようです。この歌は、過去のつらかった日々を良き思い出として懐かしく思う心情を詠んだものです。

85.夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり   俊恵法師
小倉百人一首の八十五首目は俊恵法師(しゅんえほうし)の歌です。俊恵法師は平安時代末期の僧侶であり歌人です。歌人として有名な源俊頼の息子ですが、若くして父と死別すると、出家して東大寺の僧となり、四十歳ほどまでは和歌から遠ざかっていました。しかし四十歳を過ぎたあたりから、衰えつつあった平安末期の歌壇を盛り上げるかのように和歌づくりに励み、歌会などを積極的に開催するようになりました。鴨長明の師匠であることで知られています。この歌は、恋しい人を想って一晩中もの思いにふけるつらい心情を詠んだものです。

86.なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな   西行法師
小倉百人一首の八十六首目は西行法師(さいぎょうほうし)の歌です。西行法師は平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけての僧侶であり歌人です。、二十三歳で出家し西行と号して諸国を旅しながら歌を詠むようになりました。この歌は、恋の悩みを月のせいにしようとして涙する自分の気持ちをふりかえりつつ詠んだものです。

87.村雨(むらさめ)の 露(つゆ)もまだひぬ まきの葉に 霧(きり)立ちのぼる 秋の夕暮れ   寂蓮法師
小倉百人一首の八十七首目は寂蓮法師(じゃくれんほうし)の歌です。寂蓮法師は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての僧侶であり歌人です。八十三首目に出てくる藤原俊成の弟・僧俊海の息子で、十歳ごろに俊成の養子となりました。出世は従五位上まででしたが、三十歳代で出家し、そののち歌人として活躍して和歌所寄人になりました。この歌は、雨上がりの濡れた真木の葉から霧が立ち上っている秋の夕暮れの美しい情景を詠んだものです。

88.難波江の 芦のかりねの 一夜(ひとよ)ゆゑ 身を尽くしてや 恋ひわたるべき   皇嘉門院別当
小倉百人一首の八十八首目は皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)の歌です。皇嘉門院別当は平安時代末期に崇徳院の中宮である皇嘉門院聖子に仕えていた女官でした。生没年は不明ですが、仕えていた皇嘉門院聖子が没する前年には出家していたそうです。和歌では、皇嘉門院聖子の弟である九条兼実(くじょうかねざね)の歌会によく出ていたそうです。この歌は、一夜限りのはかない契りのために生涯をかけて恋し続ける、女性の切ない気持ちを詠んだものです。

89.玉の緒(を)よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱(よは)りもぞする   式子内親王
小倉百人一首の八十九首目は式子内親王(しきしないしんのう)の歌です。式子内親王は後白河天皇の第三皇女としてお生まれになった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族です。賀茂神社の斎院で、和歌は藤原俊成に師事して学ばれており、後に出家されました。定家との交流があったことで知られています。歌人としての活動はあまり活発ではありませんでしたが、新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、忍ぶ恋に耐えられなくなって、いっそのこと命が絶えてしまえと思う気持ちを詠んだものです。

90.見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変らず   殷富門院大輔
小倉百人一首の九十首目は殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)の歌です。殷富門院大輔は後白河天皇の第一皇女・殷富門院(亮子(りょうし)内親王)に仕えていた女房で、殷富門院の出家に伴って出家したそうです。生没年は不詳ですが、歌の評価はとても高かったようです。多くの歌人と交流があり、自ら歌会を開催するなど歌人として積極的に活動し、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、失恋のつらく悲しい気持ちを詠んだものです。

91.きりぎりす 鳴くや霜夜(しもよ)の さむしろに 衣(ころも)かたしき ひとりかも寝む   後京極摂政前太政大臣
小倉百人一首の九十一首目は後京極摂政前太政大臣(ごきょうごくせっしょうさきのだじょうだいじん)こと九条良経(くじょうよしつね)の歌です。九条良経は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で、激変する時代の中で昇進や失脚を経て摂政・太政大臣にまでなりますが、三十八歳の若さで急死します。和歌は藤原俊成に師事しており、和歌所寄人の筆頭になっていて、定家とも交流がありました。この歌は、こおろぎが鳴く秋の夜のさみしさを詠んだものです。

92.わか袖(そで)は 塩干(しおひ)に見えぬ 沖の石の 人こそしらね かはくまもなし   二条院讃岐
小倉百人一首の九十二首目は二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の歌です。二条院讃岐は生没年不詳ですが平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての女房・歌人です。二条院に仕えていたので二条院讃岐と呼ばれているようですが、経歴には異説もあるようです。源頼政の娘で、若いころから歌人としての評価は高く、出家後も活躍し、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、人知れず悲しみの涙で濡れる自分の袖を、引き潮でも見えない沖の石になぞらえて詠んだものです。

93.世の中は 常にもがもな 渚(なぎさ)こぐ 海人(あま)の小舟(をぶね)の 綱手(つなで)かなしも   鎌倉右大臣
小倉百人一首の九十三首目は鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)こと源実朝(みなもとのさねとも)の歌です。源実朝は源頼朝の二男で、十二歳で鎌倉幕府第三代の征夷大将軍(三代鎌倉殿)となった人です。武士でありながら和歌や蹴鞠(けまり)を好み、朝廷との関係を大事にして出世し、右大臣にまでなりましたが、二十八歳で鶴岡八幡宮にて甥の公暁に暗殺されました。和歌は藤原定家に師事しており、歌人として活躍したわけではありませんが、その才覚は高く評価されていたようです。この歌は、世の中がどうか変わらないようにと願う切ない気持ちを詠んだものです。

94.み吉野(よしの)の 山の秋風 小夜(さよ)ふけて ふるさと寒く 衣(ころも)うつなり   参議雅経
小倉百人一首の九十四首目は参議雅経こと藤原雅経(ふじわらのまさつね)の歌です。藤原雅経(あるいは飛鳥井雅経)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人です。蹴鞠(けまり)が得意で飛鳥井家の祖とされています。鎌倉では源頼朝に高く評価され大江広元の娘を正室にもらっています、帰京してからは後鳥羽上皇に重んじられました。和歌は藤原俊成や定家に師事しており、新古今和歌集の撰者の一人となっています。官位は従三位・参議です。この歌は、秋の吉野のわびしい様子を詠んだものです。

95.おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖   前大僧正慈円
小倉百人一首の九十五首目は前大僧正慈円(さきのだいそうじょうじえん)の歌です。慈円は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての天台宗の僧侶で、四度も天台座主になった人です。後法性寺関白(ごほっしょうじかんぱく)こと九条兼実(くじょうかねざね)の弟で政治にも関わりがあり、「愚管抄(ぐかんしょう)」の作者として知られています。歌人としても有名で味わい深い歌を詠んでいます。この歌は、僧侶としての使命感と決意を詠んだものとされています。

96.花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり   入道前太政大臣
小倉百人一首の九十六首目は入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)こと藤原公経(ふじわらのきんつね)、あるいは西園寺公経(さいおんじきんつね)の歌です。姉が藤原定家の後妻さんで、定家の義弟になります。鎌倉幕府と親しく、承久の乱で後鳥羽上皇に幽閉されますが、幕府に情報を伝えてその勝利に貢献し、出世して太政大臣、従一位にまでなりました。六十を過ぎて出家し、西園寺を建てて住んでいたそうです。この歌は、嵐の日の庭と対比させて老いゆく自分への嘆きを詠んだものです。

97.来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ   権中納言定家
小倉百人一首の九十七首目は権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)こと藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)の歌です。いよいよ小倉百人一首の撰者である藤原定家本人の歌ですね。藤原定家は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で、藤原俊成の次男です。和歌所寄人、新古今和歌集の撰者であり、歌道の代表的な指導者です。最終官位は正二位、権中納言です。この歌は逢うことができない人を想い、身が焼かれるように苦しい気持ちを塩づくりの工程にかけて詠んだものです。

98.風そよぐ ならの小川の 夕暮(ぐれ)は みそぎぞ夏の しるしなりける   従二位家隆
小倉百人一首の九十八首目は従二位家隆(じゅにいいえたか)こと藤原家隆(ふじわらのいえたか)の歌です。藤原家隆は鎌倉時代初期の公卿・歌人です。和歌は藤原俊成に師事しており、和歌所寄人になっています。年齢を重ねるごとに多くの歌を詠んで同時代の定家とも引けを取らないほどその評価が高まりました。また、後鳥羽院とも和歌で交流していました。最終官位は従二位・宮内卿です。この歌は「夏越の祓」で川に入って身を清める禊祓をテーマにして詠んだものです。

99.人も惜(を)し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は   後鳥羽院
小倉百人一首の九十九首目は後鳥羽院の歌です。後鳥羽院とは第八十二代である後鳥羽天皇のことです。平安末期に平家が安徳天皇とともに三種の神器を持ち出して都落ちしたため、後鳥羽天皇は三種の神器なきまま五歳で践祚・即位しました。壇ノ浦の戦いによる平家滅亡と安徳天皇崩御があり、三種の神器のうち宝剣はついに戻りませんでした。後鳥羽天皇は宝剣を持たなかったゆえに日本刀の技術向上に熱心になり、自ら作刀するようになったともいわれています。十九歳で土御門天皇に譲位して上皇となりましたが鎌倉幕府との関係はだんだん悪化し、源実朝暗殺後に承久の乱を起こしますが乱に失敗して隠岐に配流されます。和歌では藤原俊成に師事し、自ら歌を詠むとともに和歌所の再興や大規模な歌合の開催など歌壇の振興に熱心に取り組みました。この歌は激動の時代に世を思い、世を憂う後鳥羽院の心情を詠んだものです。

100.百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり   順徳院
小倉百人一首の百首目は順徳院の歌です。順徳院とは第八十四代である順徳天皇のことです。順徳天皇は後鳥羽上皇の第三皇子で十四歳で即位しました。政治は後鳥羽上皇に任せて直接は携わりませんでしたが、鎌倉幕府に強い反感を抱いていたといわれています。承久の乱が起きる前の月に仲恭天皇に譲位して上皇になりましたが、乱の失敗後は佐渡に配流されます。和歌には熱心で、藤原定家に師事していました。この歌は宮中のかつての栄華をしのんで詠んだものです。


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