ホーム>文化>小倉百人一首について>60.大江山(おほえやま) いく野の道の 遠(とほ)ければ まだふみも見ず 天の橋立 小式部内侍
小倉百人一首の六十首目は小式部内侍(こしきぶのないし)の歌です。小式部内侍は和泉式部の娘で、母と同じく一条天皇の中宮・彰子に出仕していました。母と共に恋多き女性として知られていましたが二十代で出産した際に命を落としてしまいます。歌人としての評価も高く女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、彼女が母親の和泉式部に代作してもらっているのではないかと藤原定頼に疑いの言葉をかけられたときに詠んだものです。
歌の解釈としてはおおよそ、「大江山から生野を行く道は遠いので、まだ手紙も見ていないし、天の橋立も見たことはありません」です。天の橋立は京の都からは北西方向、およそ百キロあまりのあたりにある有名な景勝地です。ぱっと見ただけでは、有名な景勝地である天の橋立が遠いので行ったことが無い、というだけの歌かと思ってしまいそうです。でもそれだけの歌ではありません。この歌が話題になったのは、詠まれた際の背景・エピソードが当時の人々の興味を引いたからです。
小式部内侍は若いころから利発でとても和歌が上手かったので、母親の和泉式部に代作してもらっているのではないかと疑う人もいたようです。ある日、歌会にて藤原定頼が小式部内侍に対し、「お母さんのいる丹後に使いは送りましたか? お母さんから代作した歌を書いた手紙は来ましたか?」と言って、「どうせお母さんの和泉式部に代作してもらっているのだろう」とばかりにからかいました。
それに対して小式部内侍が返したのがこの歌です。大江山や生野、天の橋立としっかり地名を抑えておきながら、言葉のかけ方も上手く、手紙も見なければ天の橋立にも行ったことはない、つまり「代作なんかしてもらってませんよ」とピシャリと返しました。藤原定頼は小式部内侍の歌にもう言い返すことはできず、またその後は小式部内侍が母に代作してもらっているのではないかとウワサする者はいなくなったとも言われています。
藤原定頼といえば権大納言・藤原公任の長男で権中納言になった人です。そんな人がからかってきたのに一歩も引かず、ピシャリと歌で返すとは、小式部内侍さんはとても気が強くて頭の回転が良い人だったのではないでしょうか。
藤原定家は小式部内侍のこの歌を百人一首の六十首目に選びました。表現力豊かな女流歌人の歌が続きますね。定家はもしかしたら、小式部内侍さんのような気の強い女性が好きなのかもしれません。