ホーム>文化>小倉百人一首について>33.久方(ひさかた)の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 紀友則
小倉百人一首の三十三首目は紀友則(きのとものり)の歌です。紀友則は三十六歌仙の一人で、40過ぎまで官職に就けませんでしたが、歌人としての評価は非常に高かったようです。歌合(歌会)にもよく出ていて、従兄弟である紀貫之、壬生忠岑と共に「古今和歌集」の撰者に選ばれています。この歌は、桜の花があわただしく散っていく様子を悲しげに詠んだ歌とされています。
歌の解釈としてはおおよそ、「久しぶりにのどかに光が差し込むこんな春の日に、落ち着くこともなく花が散っていってしまうのはどうしてだろう」です。春、桜の見ごろ期間はけっこう短く、忙しく日々を過ごしてしまうと、つい見逃してしまうことがあります。もうちょっと桜もゆっくり咲いていてくれたらいいのに、そう思うときもありますよね。紀友則もやはり、忙しくて桜の見ごろを見逃してしまったのでしょうか。でも、桜は早く散るからこそ人気が高いのだという説もあります。いつまでも咲いているのであれば珍しくもないので、それほど注目もされにくいことでしょう。しづ心なく散ってしまう、そんな桜だからこそ、見頃を見逃すまいと古来より人々の注目を集めてきたのですね。
この歌にも隠された意味がある、という説があります。皆が心浮き立つ春の日に、なぜか紀友則だけが悲しみに暮れています。それはつまり、桜が散っていったからではなく、彼の恋心がかなわず散ってしまったからなのかもしれません。女心の変化に気づかず無残にも散ってしまった恋心を春の散りゆく桜にたとえて詠んだと思うと、この歌の味わいもだいぶ違ってきますね。
藤原定家は紀友則のこの歌を百人一首の三十三首目に選びました。この歌もまた単なる春の情景を詠んだ歌ではなく、失恋の歌、散ってしまった恋の悲しみを詠んだ歌なのでしょう。だからこそそれを知っていた定家によって百人一首に選ばれた、と考えてよいのではないでしょうか。