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77.瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ   崇徳院

小倉百人一首の七十七首目は崇徳院(すとくいん)の歌です。崇徳院とは第七十五代である崇徳天皇のことです。崇徳天皇はわずか満三歳で鳥羽天皇の譲位を受けており、満二十二歳で近衛天皇に譲位しています。その後、保元の乱で後白河天皇に敗れ、讃岐に配流されました。この歌は岩にせき止められて別れて流れ落ちていく滝川の情景に、別れてしまった恋人に逢いたいという想いを寄せて詠んだものとされていますが、異説もあるようです。

77.瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ   崇徳院

歌の解釈としてはおおよそ、「川の流れが速くなり、岩にせきとめられて二つに分けられて落ちていく滝川のように別れ別れになってしまっても、いつかはあなたと再開しようと思っています」です。好きな人と、今は別れ別れになってしまって逢うことができない。世の中の流れは速く、みんな流れには逆らえない。でもいつかまたあなたとは逢おうと思います。そんな恋する人の逢いたい気持ちが込められた、優しさを感じさせる歌ですね。
この歌は、普通に見れば別れた恋人に逢いたいという気持ちを詠んだ恋の歌です。でもこれは崇徳天皇の詠んだ歌だけに、単なる恋の歌ではなく何らかの怨念が込められているのではないかと推測する人が少なくありません。近衛天皇への譲位を迫られたり、保元の乱で敗れて讃岐に配流されたりした際の無念がこの歌に込められている、そんな解釈がされるのも崇徳天皇の生涯を考えると無理もないかもしれません。逢いたいのは恋人ではなく、早世した近衛天皇にあの世で逢いたいのだとか、保元の乱で戦った後白河天皇に逢って仲直りしたいのだとかいう説もあるようです。
藤原定家は崇徳院のこの歌を百人一首の七十七首目に選びました。生い立ちから不幸を抱え配流先で無念の死を遂げたとして日本三大怨霊の一人に数えられることもある崇徳天皇ですが、この歌を見る限り、心優しい方だったのではないかと思われます。平安時代が崩壊するきっかけとなったともいわれる保元の乱に敗れ、失意の中で配流先の讃岐で崩御され、後に怨念・祟りがあると噂されて人々に恐れられることとなった崇徳院ですが、人々が思うほど恐ろしい人ではなかったんですよと、この歌を選ぶことで定家は人々に示したかったのかもしれません。


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