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11.わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと 人には告げよ 海士(あま)の釣り船  参議篁

小倉百人一首の十一首目は参議篁の歌です。参議というのは官職で、本名は小野篁です。反骨の士として知られており、出世もなかなか遅かったようです。この歌は、小野篁が隠岐の国に流刑になったときに京の都の人々に向けて詠んだものとされています。島流しになる不安と失望を抱えながらも、あえて強がって明るく振る舞っている小野篁の姿が目に浮かびます。

11.わたの原(はら) 八十島(やそしま)かけて 漕(こ)ぎ出(い)でぬと 人には告げよ 海士(あま)の釣り船  参議篁

歌の解釈としてはおおよそ、「大海原を、たくさんの島々をめざして漕ぎ出していったと、京の都にいる人々には告げてくれよ、漁師の釣り船よ」です。これは嵯峨上皇の怒りをかって隠岐に島流しにされた際に詠んだ歌と解釈されます。島流しというつらい状況にも拘らず、雄大な海に向かって元気に漕ぎ出していくぞ、とばかりに強がっている小野篁の様子がうかがわれます。でも、その強がっている陰にも島流しにされる不安や失望感が見え隠れるような気がします。
小野篁は若いころは活動的で、身分が上の人に反抗することもたびたびあったようです。遣唐副使に任命されて二回出帆しますが、難破などで二回とも唐に渡ることなく京に戻ってきます。三度目の渡航の際、損傷した船に乗せられそうになって抗議し、乗船を拒否します。その後、遣唐使の制度そのものを批判するような漢詩をつくったことで嵯峨上皇の怒りをかい、隠岐への島流しとなります。
この歌は、解釈する人の気持ちによって異なってくるといわれます。たとえ流罪になっても俺は平気だぜ、とばかりに明るく前向きな歌だと感じる人もいるでしょう。一方で、流罪になってお先真っ暗、絶望的な歌だなあと感じる人もいるかもしれません。
小野篁の反骨的な性格からすれば島流しはそれほど応えなかったとも思われます。でも、強がりを言う人ほど実は落ち込みやすいのは良くあることです。もしかしたら強気の小野篁といえども、このときばかりはけっこう落ち込んでいたのかもしれません。はたしてこのとき、小野篁は平気だったのか、それとも落ち込んでいたのか。いろいろ想像力をかきたてる歌ですね。
藤原定家が小野篁のこの歌を百人一首の十一首目に選んだのは興味深いことです。人生の苦境に立たされたときに味わうべき歌として、定家のお気に入りの一つだったのかもしれません。


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