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100.百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり   順徳院

小倉百人一首の百首目は順徳院の歌です。順徳院とは第八十四代である順徳天皇のことです。順徳天皇は後鳥羽上皇の第三皇子で十四歳で即位しました。政治は後鳥羽上皇に任せて直接は携わりませんでしたが、鎌倉幕府に強い反感を抱いていたといわれています。承久の乱が起きる前の月に仲恭天皇に譲位して上皇になりましたが、乱の失敗後は佐渡に配流されます。和歌には熱心で、藤原定家に師事していました。この歌は宮中のかつての栄華をしのんで詠んだものです。

100.百敷(ももしき)や 古き軒端(のきば)の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり   順徳院

歌の解釈としてはおおよそ、「宮中の古く荒れた軒の端からは忍ぶ草が生えているのが見えるが、どれだけ忍んでも忍べないのは、昔の輝いていた時代のことだ」です。要するに「昔は良かった」ということでしょうか? 一般的に年を取れば昔は良かったと言いたくなるものです。でも、この歌は順徳天皇が二十歳ごろのときに詠んだものだそうです。まだ若いですから、「昔は良かった」などと言う年齢ではないと思います。
この歌はそうでなく、武士が台頭し宮中が衰退していくのを目の当たりにし、かつて栄華を極めた時代を順徳天皇がしのんで詠んだものです。順徳天皇の立場から見れば、それだけ宮中の衰退と世の乱れが嘆かわしかったということなのでしょう。平安時代の最盛期から比べれば、宮中は荒れ、皇室や貴族の衰退は明らかです。その現実のつらさ、苦しさが、この歌からはにじみ出てきます。
後の承久の乱が失敗に終わって順徳上皇は佐渡に配流されます。在位の間、宮中の衰退を嘆いていた順徳上皇は、佐渡にて何を思っていたでしょうか。
藤原定家は順徳院のこの歌を百人一首の百首目に選びました。定家にとっては歌の弟子であり、佐渡に配流された悲劇の帝です。もしかしたらこれで宮中の権威も和歌の文化も終わってしまうかもしれない、そんな悲観的な思いを抱えながら順徳院の歌を最後に選び、定家は百人一首の編纂を終えたのかもしれません。
これで小倉百人一首の百首がそろいました。天智天皇から始まり順徳院で締めくくるこの小倉百人一首を、定家が小倉山にこもって編纂することによって、和歌は衰退するどころか、より多くの人々に親しみやすい存在になりました。権中納言定家こと藤原定家の功績に感謝。


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