ホーム>文化>小倉百人一首について>81.ほととぎす 鳴きつる方を 眺(なが)むれば ただ有明(ありあけ)の 月ぞ残れる 後徳大寺左大臣
小倉百人一首の八十一首目は後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)こと徳大寺実定(とくだいじさねさだ)の歌です。徳大寺実定は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で、徳大寺左大臣と呼ばれていた徳大寺家の祖・徳大寺実能(さねよし)の孫です。彼の歌人としての活動は平家が台頭して政治的に活躍できなかった頃に集中していたそうです。この歌は、ホトトギスの鳴き声と夜明けの月の情景が美しく表現されたものです。
歌の解釈としてはおおよそ、「ホトトギスがが鳴く方を眺めてみれば、ただ有明の月が残っていた」です。ホトトギスが鳴いた、その鳴き声につられて目を向けたら、もうそこにはホトトギスはいなかった。そこにあったのは月。ただ月が暁の空に残っていた。そんな情景を詠んだ歌ですね。
徳大寺実定さん、よっぽどホトトギスを見たかったのでしょうか。鳴き声が聞こえたので、目を向けたのにそこには夜明けの月しかなかった。それは残念なことでしょうか。それとも、月が見られただけで良かったと考えた方が良いのでしょうか。
この歌はなんだか、人生の本質を詠んだもののような気がします。見たいと思ったものは見えない。欲しいと思ったものは手に入らない。でもそこには何か別のものがあり、欲しいと思っていなかった意外なものが手に入ることがある。徳大寺実定さんは平家が台頭すると官職はあっても実権をふるうことが出来ず政治的に活躍することが出来ませんでした。でもその間は和歌に没頭し、歌人として活躍することができました。ホトトギスは見ることが出来ないけれど、有明の月は見ることができた。実定さんは政治的に活躍できなかった期間があったけれど、だからこそ歌人として活躍することが出来ました。この美しい歌を私たちが現在味わうことができるのも、実定さんの政治的に活躍できなかった期間があったからこそと考えると、運命の不思議を感じざるを得なくなります。
藤原定家は後徳大寺左大臣のこの歌を百人一首の八十一首目に選びました。素直な情景を詠んだわかりやすい歌ですから、定家にとっても自然に心に入ってきたのでしょう。また、徳大寺実定さんの歌に見え隠れする人生観にも、定家は共感していたのかもしれません。