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70.寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ   良暹法師

小倉百人一首の七十首目は良暹法師(りょうぜんほうし)の歌です。良暹法師は平安中期の僧侶であり天台宗の祇園山別当ですが、出自など不明で謎の多い人です。歌人としても有名とは言えず、百人一首に選ばれなければその名を現代まで知られることはなかったかもしれません。この歌はさみしい秋の夕暮れのようすを詠んだ、味わい深い歌です。

70.寂しさに 宿を立ち出でて 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ   良暹法師

歌の解釈としてはおおよそ、「あまりのさみしさに住処にいられなくなって外に出てあたりを眺めてみたところ、どこも同じ秋の夕暮れだ」です。良暹法師さん、人里離れた山奥にでも住んでいたのでしょうか。家の中がさみしかったので出て見れば、外の周りも何もなくてどこも同じと、とてもさみしそうな歌ですね。
これは秋の夕暮れのさみしさを表現した歌ですが、ただ単にさみしい、つらいと言っているわけではないのかもしれません。
自分のいる場所がつらい、さみしい、そう思って外に出てみても、どこに行っても同じこと。人は往々にして自分のいる環境に文句を言い、他人のことや違う環境をうらやましがります。でも、どこかに行けばすべてが変わるというものではなく、誰もが平等に年を取るのだから、今いる場所に戻って、愚痴を言わず、嫉妬せず、心を落ち着けて修業しましょう。そんな、仏教的な教えがこの歌には込められているような気がします。
藤原定家は良暹法師のこの歌を百人一首の七十首目に選びました。出自も経歴も不明で、有名でもない良暹法師の歌を、地位や知名度ではなく歌そのものの良さで定家は選びました。おかげで私たちはこの歌に出会うことができ、深く味わうことができました。定家の歌選びの奥深さを感じさせる一首です。


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