ホーム>文化>小倉百人一首について>7.天(あま)の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる 三笠の山に 出(い)でし月かも 安倍仲麿
小倉百人一首の七首目は安倍仲麿(阿倍仲麻呂)の歌です。阿倍仲麻呂は遣唐使として唐の都である長安に留学した才覚ある人物として知られています。これは、唐の玄宗皇帝に気に入られなかなか日本に帰ることが果たせずにいた仲麻呂の望郷の想いを詠んだ歌として知られています。
歌の解釈としてはおおよそ、「振り仰いで天を見ると月が出ているではないか。あれは奈良の春日、三笠山に出ていた同じ月なのだろうなあ」です。これは阿倍仲麻呂が唐の地にて月を見て詠んだ歌とされています。
唐に留学に来たまま何十年も祖国に帰ることのできなかった仲麻呂ですが、日本から久しぶりに遣唐使が来たのでその船で帰りたいと申し出をしました。仲麻呂の帰国の申し出はついに許され、明州という所の海辺で唐の人たちが見送りの会を開いてくれました。この歌はその会の夜に月が出たので詠んだと言われています。
やっと日本に帰ることができる。ようやく帰国が許された仲麻呂も望郷への想いが強まったことでしょう。今から遣唐使船に乗って日本に帰り、奈良まで戻って三笠山から出る同じ月を見よう。そんな期待を込めて詠んだ歌なのかもしれません。
しかし、仲麻呂の乗った船は暴風によって南に漂流し、今のベトナムあたりまで行ってしまったそうです。その後、長安に戻って再び唐に仕え活躍しましたが、ついに日本に帰ることはできないまま生涯を終えました。本人は帰ることが出来ませんでしたが、この歌だけが日本に伝わってきたようです。
阿倍氏は「朝臣」を賜った由緒ある氏族のひとつであり、飛鳥時代から奈良時代にかけて官位の高い人物を輩出するなど盛んであったとされています。藤原定家が七首目に阿倍仲麻呂を選んだのは、かつて勢力のあった阿部氏に対する敬意のあらわれとも考えられます。
しかしながら、阿部氏は藤原氏の台頭などによりだんだん勢いを失っていきます。阿倍仲麻呂は唐で皇帝に気に入られて大いに出世しますが、もし日本にいたままだったらここまでは有名にならなかったかもしれません。
なお、阿部氏は平安時代からは「安倍」と称するようになったそうです。阿倍仲麻呂も、小倉百人一首では安倍仲麿と書かれています。
ところで、土佐日記では紀貫之がこの歌とともに仲麻呂の物語を紹介していますが、そこでは「天の原」が「青海原(あおうなはら)」になっているそうです。そうだとすると仲麻呂は海を見てこの歌を詠んだことになります。もしかしたらこれは、日本に帰れないかもしれないという不安を抱きながら青海原から出づる月を見て詠んだ歌なのかもしれません。