ホーム>文化>小倉百人一首について>83.世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
小倉百人一首の八十三首目は皇太后宮大夫俊成(こうたいごうぐうのだいぶとしなり/しゅんぜい)こと藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)の歌です。藤原俊成は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人で、小倉百人一首撰者・藤原定家の父であり和歌の師匠です。あまり出世できず崇徳天皇に歌の実力が認められるものの保元の乱以降は不遇となったり、咳病が悪化して六十三歳で出家したりと波乱の道のりでしたが、その後になって後白河院、後鳥羽院に取り立てられ歌壇の第一人者として活躍しました。この歌は、鹿の鳴き声を感じるとともに人生のつらさを考えさせられる味わい深いものです。
歌の解釈としてはおおよそ、「世の中には逃れる道はないものだな。深く思い悩んで分け入ったこの山奥にも、何か憂いがあるのか鹿が鳴いているよ」です。人の多い都会に住めば人が嫌になる。でも、人里離れた山奥に行けば人恋しくなる。都会に住もうと、田舎に住もうと、この世に生きている限りつらさや憂いから逃れる術はないのだ、そんなあきらめの心境を詠んだ歌ですね。
この歌を詠んだときは俊成さんはまだ二十代後半だったそうです。このころから人生に思い悩むことがあり、出家なども考えていたようですね。不遇な人生を歩んでつらい思いを続けながら、和歌をずっと続けていたのが晩年になって大きく花開いたといっていいかもしれません。歌会の判者や和歌集の編纂も務めたり、天皇も含めて多くの弟子を指導したりと、若いころは思うように出世できなかった俊成さんは六十三歳で出家した後になってから歌壇の第一人者として大いに活躍しました。
高齢になってから第一人者として活躍し有名になった人も若いころはこんな風に思い悩んでいたんのかと思うと、ちょっとこの歌の味わいも違ってきますね。
藤原定家は藤原俊成のこの歌を百人一首の八十三首目に選びました。父であり和歌の師匠でもある俊成の歌を選ぶのは、定家としても緊張したのではないでしょうか。もちろん、当時の歌壇の第一人者ですから、選ばれるべくして選ばれた歌といって良いでしょう。定家が父である俊成さんの数ある作品の中でこの歌を選んだのは、これが父の人生を最も良く表していると思ったからかもしれません。また、定家の人生においても時代が大きく変化していましたし、彼自身が不遇な思いをしたことも少なくなかったでしょうから、この歌には共感しやすかったのではないかと思われます。