ホーム>文化>小倉百人一首について>54.忘れじの 行(ゆ)く末(すゑ)までは 難(かた)ければ 今日(けふ)を限(かぎ)りの 命ともがな 儀同三司母
小倉百人一首の五十四首目は儀同三司母の歌です。儀同三司母というのは藤原伊周(ふじわらのこれちか)の母のことで、関白・藤原道隆の妻です。「儀同三司」は官職の唐名で左大臣・右大臣に準ずる地位という意味です。和歌に秀でており漢詩の才能もあって宮中では人気でした。しかし夫の死後、息子たちが藤原道長との権力争いに敗れ、失意のうちに病死します。これは、告白を受け愛の絶頂にある女性が将来への不安と、このまま死にたいとさえ思う気持ちを詠んだ歌とされています。
歌の解釈としてはおおよそ、「決して君のことは忘れないというあなたの言葉が、私たちの行く末までずっと変わらないでいてもらうのは難しいでしょうから、あなたがその言葉を言ってくれた今日を限りに命が尽きてしまえばよいのに」です。今は愛されていて幸せの絶頂にある、でも将来はどうなるかわからない。それならいっそ、今日を限りに命が尽きてしまってほしい。そんな幸せの絶頂にありながら将来への不安をぬぐいきれない女性の複雑な気持ちを感じさせる歌ですね。
愛されている。今、私はとても愛されている。でも、あなたは摂関家の高貴な家柄、きっと外ではちやほやされるでしょう。それに、年を取れば私の容貌も衰えていく。将来はきっとあなたも夜になったら家に帰らず、若い女と遊ぶようになるでしょう。今の私は幸せの絶頂にある。でも将来はだんだん不幸になっていくのが目に見えている。それならいっそ、今日を限りに命が尽きてしまってほしい・・・。
女性は幸せの絶頂にあってもこんな風に将来に不安を感じるものなのでしょうか。男は浮気する生きものといわれますが、女性を不幸にするようではいけないと思います。世の男子諸君もよく気をつけましょう。
藤原定家は儀同三司母のこの歌を百人一首の五十四首目に選びました。幸せの絶頂にある女性が将来やってくる不幸を予感している、そんな歌を定家は選びました。これはまた、藤原家の栄華と行く末を暗示している歌なのかもしれません。摂政・関白を輩出し、栄華の絶頂にあってやりたい放題だった藤原家も、このころから将来への不安を抱えていた。儀同三司母の歌はそんな藤原家の栄華と衰退を暗示させているような気がします。