ホーム>文化>小倉百人一首について>89.玉の緒(を)よ たえなばたえね ながらへば 忍ぶることの 弱(よは)りもぞする 式子内親王
小倉百人一首の八十九首目は式子内親王(しきしないしんのう)の歌です。式子内親王は後白河天皇の第三皇女としてお生まれになった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族です。賀茂神社の斎院で、和歌は藤原俊成に師事して学ばれており、後に出家されました。定家との交流があったことで知られています。歌人としての活動はあまり活発ではありませんでしたが、新三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人に選ばれています。この歌は、忍ぶ恋に耐えられなくなって、いっそのこと命が絶えてしまえと思う気持ちを詠んだものです。
歌の解釈としてはおおよそ、「私の命の玉の緒よ、絶えるのなら絶えてしまえ、このまま生きながらえてしまうと、恋に耐え忍ぶ私の心が弱ってしまい、忍ぶことができなくなってしまうから」です。逢えない恋、忍ぶ恋を耐え続けるのはつらいものです。いつまでも苦しいまま忍んで耐え続けなくてはいけないのなら、いっそのこと命が絶えてしまえ。そんな激しい気持ちを表現した、ドキッとするような歌ですね。
たしかに、つらく苦しい恋に悩んでいると、そんな風に思うことがあるかもしれません。でも、思い止まって、と思わず言いたくなります。生きていれば楽しいこと、うれしいこともあります。うまくいかない恋にあまり執着せず、できれば気分転換した方がいいんじゃないでしょうか。
式子内親王さまは、むしろ命をかけてでも忍ぶ恋に情熱をかけたい方だったのかもしれません。忍ぶ気持ちが弱るくらいなら、いっそのこと玉の緒が絶えてしまえと、そこまで恋に情熱を注げるとは、その激しさはむしろ魅力的にも思えてきます。
この歌は「恋歌」としてお題を与えられて詠んだもので、式子内親王ご本人の気持ちを詠んだものではないとするのが定説です。しかし、式子内親王は小倉百人一首の撰者である定家の父である俊成に師事して和歌を学ばれており、定家とも交流があったことから、実は定家への恋心を詠んだものではないかと考える人もいるようです。もしそうなら、この時代であれば身分の違う許されない恋ですから、忍ぶ恋になるしかなかったのでしょう。
藤原定家は式子内親王のこの歌を百人一首の八十九首目に選びました。つらく苦しい忍ぶ恋の歌は、定家の好むところですね。あやうく忍ぶ恋百人一首と名前が変わってしまいそうです。とりわけ激しい気持ちを表現したこの歌は評価が高く、百人一首に選ばれるにふさわしい歌と言って良いでしょう。ひょっとしたら定家自身が式子内親王に恋心を寄せていて、この歌を選びながらも自らの恋心を耐え忍んでいたのかもしれません。