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99.人も惜(を)し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は   後鳥羽院

小倉百人一首の九十九首目は後鳥羽院の歌です。後鳥羽院とは第八十二代である後鳥羽天皇のことです。平安末期に平家が安徳天皇とともに三種の神器を持ち出して都落ちしたため、後鳥羽天皇は三種の神器なきまま五歳で践祚・即位しました。壇ノ浦の戦いによる平家滅亡と安徳天皇崩御があり、三種の神器のうち宝剣はついに戻りませんでした。後鳥羽天皇は宝剣を持たなかったゆえに日本刀の技術向上に熱心になり、自ら作刀するようになったともいわれています。十九歳で土御門天皇に譲位して上皇となりましたが鎌倉幕府との関係はだんだん悪化し、源実朝暗殺後に承久の乱を起こしますが乱に失敗して隠岐に配流されます。和歌では藤原俊成に師事し、自ら歌を詠むとともに和歌所の再興や大規模な歌合の開催など歌壇の振興に熱心に取り組みました。この歌は激動の時代に世を思い、世を憂う後鳥羽院の心情を詠んだものです。

99.人も惜(を)し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は   後鳥羽院

歌の解釈としてはおおよそ、「人のことがいとおしくもあり、人のことが恨めしくもある。つまらないこの世を思うがゆえに、もの思いにふけってしまう我が身には」です。世の中は、何かと思い通りにいかないものです。特に人の上に立ち、世を治めなくてはならない立場であれば、それだけ悩みも大きくなるのかもしれません。平安時代末期から鎌倉時代初期は激動の時代、武士が台頭し源平が覇権を争う中では、後鳥羽上皇も思うようにいかないことが多かったことでしょう。上皇のつらい心情が伝わってくるような、沈鬱さを感じさせる歌ですね。
この歌は後鳥羽上皇が三十代前半に詠んだものだそうです。そのころであれば土御門天皇が退いて順徳天皇が即位し、後鳥羽上皇は治天の君として権勢をふるっていたころです。また鎌倉右大臣こと源実朝とも良好な関係を築こうとしていたので、後鳥羽上皇はかなり存在感を発揮していたと思われます。ただ、ともすれば後鳥羽上皇の院政は人々の不満を買い、抵抗勢力になる人たちも少なくなかったようです。治天の君でありながらも思うように世の中を動かせない現状を、上皇はもどかしく感じていたのでしょうか。
後の承久の乱の失敗と隠岐への配流から、それまでの後鳥羽上皇の院政は独善的で強引だったと評価されることが多いようです。ただ多才な上皇だっただけに、思うように行かない世の中がもどかしく感じたのは致し方なかったのかもしれません。
藤原定家は後鳥羽院のこの歌を百人一首の九十九首目に選びました。歌人として秀逸な作品を多く残している後鳥羽院ですが、定家はあえて沈鬱さを思わせるこの歌を選びました。おそらく定家は、この歌が隠岐に配流された後鳥羽院の心情に最も近いと考えたのではないでしょうか。


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